林業試験場発祥の地記念碑明治三十三年にこの地に樹木の研究のため海外の樹木をはじめ国内の樹木を集め育成、病虫害等の研究を目的に創設されました。
崖けの湧き水現在はりっぱな道水路がマンションの玄関前に作られています、湧き水はいまだに耐えたことがありません。
目黒寄生虫館世界で唯一つの寄生虫の博物館です。
七階建てのビルで一階と二階が展示室です、興味のある方は
<ここをクリックしてください。
元競馬場バス停この辺は東京ではじめて競馬場が出来た場所ですが、面影は写真のバス停留場と下目黒 丁目の道路のカーブが競馬場のコースの一部と言われています(コースは1600m)。明治四十年に日本競馬会によって開設され昭和八年に府中に移転して東京競馬場となる。
油面江戸時代の中ごろから、このあたり一帯では菜種の栽培がさかんでした。絞った菜種油は芝の増上寺や、その流れを汲む祐天寺の灯明用として使われていました。
この油を奉納する事によって租税が免除されていた。[油免」が「油面」になったといわれています。
道祖神目黒通りにある道祖神については記録がないので不明です。
鷹番江戸時代にはいってこの辺は将軍の鷹狩場でした、その鷹場の監視にあたる、鷹番が居住していた監視小屋があったところから鷹番といわれています。
かむろ坂歌舞伎で有名な白井権八が、鈴が森で処刑されたのを悲しんで後を追った愛人遊女の小紫を、心配してかむろが後を追いかけていく途中の坂で、
暴漢に襲われ、目の前の二つ池に身を投じてしまった。かむろの死を哀れんだ村人が、いつしかこの坂を、「かむろ坂」と呼ぶようになりました。
写真は下り山の手通り方面(早朝の写真です)信号左に行くと目黒不動尊です。のぼり方面は現在拡張工事中です。
「目黒の秋刀魚」の話は有名ですが、目黒が秋刀魚の産地ではありません。目黒区と品川区の境に不動尊、林試の森公園がありますが、江戸時代中期の安永年間の中ごろ
京橋の本湊町に大きな邸宅を構えた豪商、海運業の山路治郎兵衛勝孝が荏原郡戸越村(現在の品川区小山)に広大な別邸を構えていました。
当寺戸越村の農民は将軍の鷹狩に駆り出されたり、田畑を荒らされても泣き寝入りでした。おまけに高い年貢で苦しめられていたといわれています。
山路治郎兵衛勝孝は何とか農民を救う事が出来ないかと考え、、寛政五年に琉球から島津藩に伝わったといわれる筍を取り寄せ筍の栽培を始めたところ
良質な筍が出来ました。そこで農民はこぞって筍の栽培に力をいれました、その結果目黒の筍は江戸では有名になりました。今では昔の面影を偲ぶところはありませんが目黒の碑文谷
に「すずめのお宿」緑地公園に残っています。
山路氏の子孫は現在わたしの家の近くの邸宅にお住まいです。