散歩の楽しみ3

目黒不動の回りにはちょっと変った建物や地名があります。
変った建物は写真にもあるように、寄生虫博物館です。世界で寄生虫専門の博物館はここだけだそうです。見学すると普段、生ものを多く食する方はちょっと考えてしまうかも?。 目黒という地名ですがいろいろ調べましたが正確にはわかりませんでした。文献によると目黒には、約一万六、七千年前の先土器時代からすでに人が住んでいたといわれています。 約一万二千年〜二千年前の縄文時代の遺跡は、目黒川とその支流、呑み川とその支流に面した湧水点に恵まれた丘陵緑地帯を主にして油面、目黒不動、富士見台、柿の木坂遺跡が数多く発見されています 弥生時代になると目黒川沿いの低地で僅かながらの稲作が行なわれていたようです。
五世紀ごろに大和朝廷の東国支配が始まり、大化の改新から奈良時代にかけて武蔵の国となり、目黒は武蔵の国二十一郡のうちの荏原郡に属したとあります。 この頃各地で馬の生産が盛んに行なわれて、目黒付近でも馬牧が盛んで良馬を産していたようです。駒場、駒沢、馬引沢などの馬にちなんだ地名が現在残っています。目黒「め」は馬を、「くろ」は畔をあらわし、 馬牧の周囲のあぜ道のことで馬の牧からおこった地名であるとも言われています。
平安時代には各地に荘園が起こって、武蔵七党などの武士が活躍するようになり、目黒付近は「菅刈荘」と呼ばれていた。目黒不動、大鳥神社、円融寺は、九世紀の創建と伝えられている、目黒地域の開発や文化の発達はこれらの社寺を中心におこなわれたとあります。 「鎌倉幕府」が成立すると、東国の武士たちはその支配下に入ったが、目黒地域には目黒弥五郎という武士がおり源頼朝に仕えた事が記録に残っています。鎌倉へ通じる道として、荘園から荘園へ、八幡宮から八幡宮へと結んだ道が、鎌倉街道と呼ばれ目黒を通っていたのは「中つ道」という幹線道路でした。 源氏がやがて北條氏に更に足利氏が登場して室町幕府が誕生しそのときの目黒の領主に大田源七郎、島津孫四郎などの名が残っている。十四世紀には関東菅領の上杉氏、更に小田原北条氏の勢力化にあった吉良氏が支配し東光寺、円融寺などを特に保護したとある。
やがて「豊臣、徳川」の時代となり、将軍の鷹狩の場となって行ったのです。

林業研究所発祥の地湧き水の水路
林業試験所の記念碑 湧き水の水路
林業試験場発祥の地記念碑明治三十三年にこの地に樹木の研究のため海外の樹木をはじめ国内の樹木を集め育成、病虫害等の研究を目的に創設されました。
崖けの湧き水現在はりっぱな道水路がマンションの玄関前に作られています、湧き水はいまだに耐えたことがありません。

目黒寄生虫館元競馬場
目黒寄生虫館 元競馬場

目黒寄生虫館世界で唯一つの寄生虫の博物館です。
七階建てのビルで一階と二階が展示室です、興味のある方は<ここをクリックしてください。
元競馬場バス停この辺は東京ではじめて競馬場が出来た場所ですが、面影は写真のバス停留場と下目黒 丁目の道路のカーブが競馬場のコースの一部と言われています(コースは1600m)。明治四十年に日本競馬会によって開設され昭和八年に府中に移転して東京競馬場となる。


油面道祖神
油面 道祖神
油面江戸時代の中ごろから、このあたり一帯では菜種の栽培がさかんでした。絞った菜種油は芝の増上寺や、その流れを汲む祐天寺の灯明用として使われていました。
この油を奉納する事によって租税が免除されていた。[油免」「油面」になったといわれています。
道祖神目黒通りにある道祖神については記録がないので不明です。
鷹番江戸時代にはいってこの辺は将軍の鷹狩場でした、その鷹場の監視にあたる、鷹番が居住していた監視小屋があったところから鷹番といわれています。


かむろ坂かむろ坂標識
かむろ坂 かむろ坂
かむろ坂歌舞伎で有名な白井権八が、鈴が森で処刑されたのを悲しんで後を追った愛人遊女の小紫を、心配してかむろが後を追いかけていく途中の坂で、 暴漢に襲われ、目の前の二つ池に身を投じてしまった。かむろの死を哀れんだ村人が、いつしかこの坂を、「かむろ坂」と呼ぶようになりました。
写真は下り山の手通り方面(早朝の写真です)信号左に行くと目黒不動尊です。のぼり方面は現在拡張工事中です。
「目黒の秋刀魚」の話は有名ですが、目黒が秋刀魚の産地ではありません。目黒区と品川区の境に不動尊、林試の森公園がありますが、江戸時代中期の安永年間の中ごろ 京橋の本湊町に大きな邸宅を構えた豪商、海運業の山路治郎兵衛勝孝が荏原郡戸越村(現在の品川区小山)に広大な別邸を構えていました。
当寺戸越村の農民は将軍の鷹狩に駆り出されたり、田畑を荒らされても泣き寝入りでした。おまけに高い年貢で苦しめられていたといわれています。 山路治郎兵衛勝孝は何とか農民を救う事が出来ないかと考え、、寛政五年に琉球から島津藩に伝わったといわれる筍を取り寄せ筍の栽培を始めたところ 良質な筍が出来ました。そこで農民はこぞって筍の栽培に力をいれました、その結果目黒の筍は江戸では有名になりました。今では昔の面影を偲ぶところはありませんが目黒の碑文谷 に「すずめのお宿」緑地公園に残っています。
山路氏の子孫は現在わたしの家の近くの邸宅にお住まいです。









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