散歩の楽しみ

散歩のコースには結構昔の由緒あるお寺があります。歴史案内板を見ていてHPに載せてみようと思いたちました。 最近はデジカメを首にぶら下げて朝の散歩に出かけるようになりました。 まず目黒不動尊の部分が出来ましたので紹介してみたいと思います。目黒不動尊は江戸時代将軍の庇護の下大変賑わいを呈していたそうです。堂塔も五十数棟あったと記されています。 元和元年(西暦1615年)の火災でほとんど焼失したが、寛永十一年(1634年)に復興したとあります。先の戦災でほとんど焼けてしまいましたが、最近は昔ほどではありませんが堂塔も戦前のように少しずつ復興しつつあります。 ただ門前の商店街の方は逆に衰退していくように見受けられます。何とか昔の活気を取り戻してもらいたいと思います。
交通はJR山の手線五反田駅より渋谷行きのバスで不動尊下車が便利です。バスの停留所が境内にあります、ただ縁日(28日)の日は手前までヾ折り返しになります。
目黒不動尊

仁王門不動尊本堂
仁王門 本堂


天台宗「泰叡山瀧泉寺」一般には 目黒不動尊と呼ばれています。 開祖は伝教大師「最澄」の弟子で慈覚大師「円仁」第三代天台座主が大同三年(西暦808年)に師の広智のお供で比叡山に向う途中この地に立ち寄り、その夜に不動明王の霊夢を見、自らその像を彫刻して安置したのが開基とされています。其の後大師として再びこの地に立ち寄り天安二年(西暦858年)堂寺の建設に着手し創建したのが始まりといわれています。 そのご 貞観二年(860年)清和天皇より「泰叡」の勅額を下賜され、これより山号を泰叡山と称し寺号は大師(円仁)自ら棟札に「大聖不動明王心身安養呪願成就瀧泉寺長久」と記しそこから瀧泉寺と名付けたという。本尊は大師が彫ったといわれる不動明王像が現存し12年に一度の酉年に開帳される。 その後弘治三年(1630年)に堂塔修理が造営されたが、元和三年(1615年)に火災で諸堂ことごとく焼失しましたが、寛永十一年(1634年)に復興しました。戦災で本堂をはじめ諸堂も焼けましたが本尊と本尊所持の宝剣天国は難をまぬかれ今日現存しています。

右の写真が本堂です。仁王門を這入り石畳を行き少しきつい数十段の石段を登ると正面に本堂に向います。本堂は戦災で焼失しましたが戦後まもなく仮りの堂が立てられましたが昭和56年に現在の本堂が再建されました。この不動尊は江戸三大不動の一つに数えられ、毎月28日が縁日で参拝客で大変賑わいます。
左の写真は仁王門で仁王像の周りは鳥よけのため金網で覆ってある、仁王像は左右一体づつあります。下の写真は金網ごしに撮影したものです。

仁王像1仁王像2
左仁王像 右仁王像


前不動瀧泉寺本院
前不動 瀧泉寺本院

前不動は江戸時代将軍をはじめ諸大名の参拝のとき一般庶民は本堂に参拝出来ませんでした、そのために前不動を建てたとあります。建築は当時の姿が残されている事から、都指定有形文化財となっています。
龍泉寺本院および阿弥陀堂五月の連休だけ庭を見学することができます。庭は池を回る回遊式です。

独鈷の瀧と水かけ不動鷹居の松
独鈷の瀧と水かけ不動 鷹居の松

独鈷の瀧当山の水垢場です。承知十四年(847年)当寺の開山した慈覚大師が唐から帰朝の後、関東に下りこの地に来た頃この地は干ばつで困っていました。 そこで大師が持っていた独鈷を地面に刺したところ霊泉が湧き出したとあります。昔は三箇所あったといわれていますが現在は二箇所から千数百年の今日まで枯れた事が無いといわれています。
水かけ不動不動尊に水をかけお祈りをするとご利益があると言い伝えられています。

鷹据の松徳川家康の頃から当地は将軍の鷹狩の場であったので、当寺は昼食お休み所として使われていました。三代将軍家光の時この地で鷹狩をしていたとき愛鷹が行方知れずになり 非常に落胆し、自ら不動明王に祈願したところ本堂脇の松に飛び帰って来たので、家光はその威力に尊信し其の後、当寺の諸堂末寺等を併せて五十三棟に及ぶ大伽藍を建てたとあります。 そのことから松ノ木は鷹居の松と呼ばれるようになりました。今でも松は階段下右に大切にされています。

余談ですが落語に出てくる目黒の秋刀魚のお話もこの時期に、出来たといわれています。

役の行者勢至堂
役の行者 勢至堂

役の行者体の痛いところを行者をなぜる事により良くなると言い伝えから、縁日は高年者の人が列を作ります。おかげで行者は年中ぴかぴかです。
勢至菩薩阿弥陀仏の脇侍として、知恵の光をもってあまねく一切を照らし人々の迷いや苦しみから救う菩薩。


大日如来像八大童子
大日如来 八大童子

大日如来仏教では、宇宙全体の象徴として大日如来があり、求める人に等しく接して、 不動明王はその大日如来と一身同体で、大日如来の化身、使者である。
本堂の真後ろの林内に鎮座している。
申年生まれの人の守り神でもあります。
八大童子不動明王の看族として、恭敬礼拝する者を、衆生救済に活躍する童子たち。

鐘楼本居長世の歌碑
鐘楼 本居長世の歌碑


鐘楼この鐘楼は戦災をまぬかれましたが古く, 痛みもひどくなったの再建されたものです。春さくらの季節は、お花見の人で大変賑わいます。
鐘は昔は撞き人が午前六時と夕方六時に撞きましたが、今は自動で撞かれているようです。冬は風の具合でわたしの家まで聞こえます。

本居長世の歌碑童謡でおなじみの「十五夜お月さん」「赤い靴」「七つの子」などを作曲した本居長世が近くの三折坂下に住んでいました。 下の写真は現在の三折坂です坂が三曲がりで結構急な坂です。右側は不動尊の敷地です。左側は現在はマンションが立ち並んでいます。昔は小高い山林で山すそから絶えることなくきれいな水が湧き出ていました、現在マンション玄関前に水路が出来ています。

三折坂三折坂下
三折坂 三折坂下


青木昆陽の墓比翼塚
青木昆陽の墓 比翼塚


青木昆陽の墓江戸初期に、サツマイモの栽培を広め、貧しい農民を救った。元禄十一年(1698年)、江戸日本橋に生まれた。
町奉行大岡忠相の知遇を得て、幕府の書物方に取り立てられ、後に書物奉行につく。
晩年は目黒に移り住み、寂しい隠居暮らしを続け七十二歳で他界する。

比翼塚歌舞伎で有名な「後追い心中物語」白井権八を熱愛した新吉原の花魁、小紫が鈴が森で処刑された、愛人権八の後を追って、その墓前で悲壮な自害をとげた。
人々は二人の悲恋を哀れみ、 来世で結ばれるようにと、地元の人たちによって立てられました。







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